FBなどに投稿するとき、ついつい面白いネタや、面白い写真だけに頼ろうとしがちだと思います。
自分から発信のネタでは無く「これ流行ってるから外れ無し」的なネタや、
写真だけでなんとなく面白いネタ。。
写真だけで面白いのはまぁありだなと思います。
ただ、前者の方にはどうもイワユル「リア充」のにおいがしてきて
「簡単に「いいね」押すと思うなよ!」と思ったり。
(流行りのパンケーキのお店に行ってきましたーとかってパンケーキの写真だけ載せる人ね。
いや、食べた感想とかは?必要以上に大口開けて食べるおちょけ写真とかは?
辛辣に「流行ってるだけで美味しくもまずくもなかったです♡」とか書いてる文章とかは無いの?とかね。)
かと思えば、とりあえずFBを開いて閲覧したという自分なりに異議を持ちたくて
「いいね」しまくったり。
(友人から、「あ、2号がFBを見始めた」と思わせるくらいの連打)
逆に今度は写真無しで文章だけで勝負してくる友人だけに「いいね!」しよう!と
変な妄想を行ったり。。
今日は少しだけ「いいね!」について考えていた、どうも2号です。
だって電車が1時間も遅れてるんだもん。(危険物が発見されたとかで・・)
要らんことも考えてしまいますよ笑。
先日京都で開催されていた「第41回全日本バスケットボール選手権大会」を覗いてきました。
本来の目的は金閣寺にお守りを返すことだったので、本当に少しだけですが。。
いつも私にバスケにおいて常に「進化せぃ!」と発破をかけてくれる先輩のチームは見事優勝していました。
何でも1番になることは難しい。
だから凄いと思います。(蓮舫さん聞いてますか?笑)
あと、同じ大会に出ていた高校・大学時代の同期が試合中アキレス腱を切りました。。
明日手術だそうです。
光もあれば影もあるのが勝負の世界ですが、、友人が怪我をすると少し凹みます。
これから少しの間日常生活もやりにくいだろうし、仕事への影響もあるかと思います。
怪我をして初めて、健康な体がいかに尊いものだったか気づきます。。
そして本人が一番辛いとは思いますが、周りの者はどう声をかえれば良いか
少し悩むと思います。
特に大きい怪我でなかなか復帰できないような怪我の時。。
以前にも書きましたが私は大学の時大きめの怪我をして約2か月間家から出られませんでした。
学校から家まで約2時間ほどかかるため、松葉杖や車椅子で一人で行くことはかなり壁がありました。
それでも電話やメールでその時かけてもらった励ましの言葉や、何気なく連絡くれた友人の言葉は、
どんなものでも励みになりました。
自分がそこに居なくとも、自分のことを考えてくれる、連絡してくれる人がいるだけで
ありがたいと思いました。
逆に私の状況を知っていながら、自分の悩み(バスケに関して)ばかりを連絡してきて自分に必死な人もいました。
この時は「この人いつもこんな感じやなぁ。人気持ちより自分の気持ちが最優先なんや。こっちは怪我して動かれへんの無神経やな」と思っていましたが、
後々「それは自分も同じやんか!」と相手のことをそんな風に思っていた自分が恥ずかしくなりました。。
怪我をして練習できなかったり、いつも通りに過ごせなくなると、心が狭くなるって聞いていました。
でも自分は結構楽観的な性格だから関係ないと思っていました。
でも、やっぱり心が狭くなっていたのです。
「自分は怪我してかわいそうだから、労わってもらって当たり前」という心がいつの間にか常駐していたような気がします。
その人は普段通り、怒りや不安の矛先を向ける方向が分からず私に愚痴っていただけなのに。。
人の話を自分都合で聞けなくなっていた、おかしかったのは自分の方じゃないか?と考えるようになりました。
この「特別にみてもらう」ということが、なんと奢った行為なのか。「恥ずかしい」以外出てきませんでした。。
少し話はズレますが、この「恥ずかしい」という気持ちは人間にどうして必要なのでしょうか。。
(恥じらいとは少し違った意味合いで書いてます)
恥ずかしがって、必要な発言ができなかったり、恥ずかしがって人を助けられなかったり、、
良いことに繋がることってあるのでしょうか?
ある本に人間に必要な感情について少し書いてありました。
『恐怖』は危険回避のために必要なのではないでしょうか。
『怒り』は感情を高ぶらせ、行動の原動力になることがあります。『恐怖』と似ているところもあります。
捕らえられた獣が暴れるのは、恐怖を感じつつも、怒りを漲らせているからです。
『悲しみ』は亡くしたく無い人を亡くしたりした場合出てくる感情です。そしてその悲しみは
それらを大切にする感情に繋がります。悲しみを感じたくない、だから大事にする。
では『恥ずかしい』という感情はどういった行動につながるのでしょうか?
なぜ根付いたのでしょうか?
「二度と繰り返さないような失敗をした時にさえ、人は恥ずかしくなります。
そして、自分の失敗に対し、素直に謝罪するどころか、失敗を認めず、激怒し、
他人に責任をなすりつけようとする人間も多いわけです」
「つまり、恥ずかしさは、『見放される』という思いと結びついているのではないでしょうか。
失敗をしたことを誰かに気づかれ、自分の能力を低く見積もられる。
その結果、自分が仲間から見放されるのではないか、そう恐怖するのかもしれません。」
「思春期の若者は、恥をかくことを極端に恐れます。
もちろん、大人だってそうですが、十代の若者は、『仲間の面前で恥をかく場面』が大人よりも多いのです。
大人のほうが、恥ずかしさの処理に慣れていると言ってもいいかもしれません。
大人のほうが、『この程度では見放されない』と分かっているわけです」
大人になるってことは恥ずかしいことに慣れることでもあり、
人間関係上、この人には見放されたくない、この人には見放されても良いと判断?取捨選択?していくって
ことでもあるのかな?とも思いました。
まだ20代に入ったばかりだった当時の私は
私は自分が動けないから、自分の存在や実力といった今までなら意識せずともそこに在ったものが信じられなくなって
自分が低く見積もられたことに恐怖したのです。
そうした結果、仲間から見放されると思ったのかもしれません。
だから早く復帰しよう、みんなと同じメニューを復帰した日から全部できるくらいリハビリ頑張ろうと思ったのかもしれません。
健康体は、体もですが「心」も通常に戻ってこそ健康といえると思います。
怪我している本人は本当に辛いと思います。
それを労わるのは周りの役目だと思います。
それに奢らず健康体を目指すのは本人の役割だと思います。
それぞれがそれぞれの位置からできることを頑張る。
これしか前に進む方法はありません。
怪我をしてしまった。。そんな時に友達に救われたり、自分の恥を知ったり怪我も悪いことばかりではありませんが、
友人には出来るだけ早く、きちんと怪我が治ってほしいと思います。
いや、早くなくていいからちゃんと治ってくれればと思います。
PS:恥ずかしがってないで一緒にやりましょうよ笑
誰に見放されるのを怖がってるんですか?笑
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